2018.02.23 update

【特集|バイヤーのこぼれ話】Vol.1 中村良枝|ディアスキン・ラバーからの贈り物。

さいきんは切り身が海を泳いでいると本気で信じている子どもがいるそうです。海から食卓にのぼるまで──この過程こそが生を実感することのできる部分であり、知らずに育つなんてなんとも味気ない話です。それはファッションの世界とて例外ではありません。口福を感じさせるムニエルが、海のなかを元気に泳ぎまわった舌平目やスズキがいて、腕っこきの漁師や料理人がいてはじめて食卓にのぼるように、裏方として日夜奮闘する人々がいて華やかな舞台に立つことができるのです。


靴畑一筋20余年。紳士靴の名物バイヤー、中村良枝が今シーズンのとっておきとして紹介してくれたのは、ディアスキンをまとった〈クロケット&ジョーンズ〉のタッセル・スリップオンとローファーだ。

どうぞ触ってみてください。なめらかでしょ。ニュージーランドで育った鹿皮を鞣しています。もうひとつ、均一な表情をキープしているのがおわかりになりますか。起毛革には順目逆目があり、ふつう、毛の流れに逆らうと色の濃淡が生まれます。これも、ディアスキンの特徴。鹿の起毛革というとバックスキンがポピュラーですが、比べてみればその差は一目瞭然です(ディアスキンは牝鹿、バックスキンは牡鹿の革を指す)。

前回、<クロケット&ジョーンズ>で仕掛けた“5素材企画”シリーズは定番のローファーにクロコダイル、コードバン、シャーク、パテント、そしてディアスキンをまとわせるという試みでした。いずれも好評を博しましたが、なかでもディアスキンは素晴らしかった。革に対する類まれな審美眼をもつ社長のジョナサン(=ジョナサン・ジョーンズ)ならではだと思いました。なんでもいまから数十年前、スコットランドのディアスキン専門店から別注企画の提案があり、そのときにつかった革だそうです。

ついてはこのディアスキンをフィーチャーした企画を、と来春の打ち合わせに勢い込んでのぞんだところ、ジェットコースターのような乱高下を味わうことに。


無情にもそのタンナーはすでに廃業していました。 傷心のわたしをみてジョナサンはおもむろに口をひらきました。「ディアスキン・ラバーのために仕入れた革が残っている。それをつかいなさい」 

残り数十枚のディアスキンでタッセルとローファーをそれぞれ6足ずつ、つくってもらいました。あえて歩留まりの悪いタッセルを選んだのは、一枚革で成型した贅沢を味わっていただきたかったからです。貴重な革を無駄なくつかうためにローファーも加えました。ひとりでも多くのかたにこの革の良さを体感していただきたい、という思いもありました。

今秋開催予定のオーダー会のために2〜3足分残しておきますので、こちらも楽しみにしていただけたら。


伊勢丹に入社してはや20余年。以来靴畑一筋


成人式を前にご来店される予定のお客さまがいらっしゃいます。2歳のときに抱っこさせていただいていますからかれこれ20年近いお付き合い。はじめての革靴、大学入学式の革靴、そして成人式の革靴。節目節目でお見立てさせていただいてきました。親子三代にわたるお客さまもいらっしゃいます。お客さまには恵まれてきました。たくさんのお客さまとともに過ごし、ともに歩む──どの出会いも物語のようでかけがえのないものになっています。

接客で心がけているのはとにかくお客さまの立場に立って考えること。そして、お客さまの思い、わたしの思いを膝付き合わせてつくり手に伝える。この仕事はつくり手、売り手、買い手の気持ちがひとつになることが不可欠です。ですから、わたしは年に数回、英国やイタリア、スペインなどのファクトリーに足を運び、職人との対話を心がけます。わたしのものづくりはすべてがそこからはじまります。このプロセスこそがわたしのベースであり、変わらないスタイル。バイヤー中村にとっては当たり前のスタンスなのです。

<エドワード・グリーン>の先代ジョン・フルスティックはわたしのことをクイーンと呼んでくれました。とうじわたしがもっとも売る販売員だったからです。


もともと靴は好きでした。ディスコ華やかなりし時代(笑)、気に入ったパンプスを色違いで5足まとめて買ったこともありました。紳士靴のフロアに配属されて、五月病も知らず製法、素材、ブランドストーリー…、重厚なその世界にどんどんのめり込んでいきました。弊社の社内資格シューカウンセラーの第1期生としてドイツの健康靴メーカー<フィンコンフォート>に研修へいったこともあります。足型を採って、インソールを削りました。

お客さまといえば、ひとり、忘れられないかたがいらっしゃいます。わたしが全幅の信頼を寄せたお客さま。山口県に住まれていた無類の靴好き。ご自身が所有する膨大な名作の写真に一つひとつ解説した手紙を添えて送ってくださったこともあるんですよ。


この<ステファノ・ビ>はかれが磨いてくれたもの。弊社がはじめて開催したトランクショーでオーダーしました。これがきっかけで自分だけの一足という古き良き世界の虜になり、何足オーダーしてきたことか…。もちろんお客さまに薦めるのに体験しないことにははじまらない、という思いもありましたが、<ステファノ・ビ>だけでも8足はつくってもらいましたね。そうしてフロアの核となるイベントに。

さて、念願の<ステファノ・ビ>を手に入れたものの、なにせ手染めの靴ははじめて。早速そのお客さまにケア指南をお願いしました。わたしの<ステファノ・ビ>はかれに磨いてもらうために東京と山口を何往復したか知れません。


フィレンツェの街でずぶ濡れになったときも帰国早々連絡をとりました。ピカピカに磨かれて戻ってきて、それからほどなくして亡くなりました。以来履いていません。10年以上も前の話ですが、少しも曇っていないでしょ。

Text:Kei Takegawa
Photo:Tatsuya Ozawa

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