2016.05.27 update

【インタビュー】<SOMÈS SADDLE/ソメスサドル>|馬具文化がはぐくんだ、ほんとうの機能美


直線道路日本一のモニュメントがたつ国道12号をひたすら走りつづけると、どこまでも広い空と大地にソメスサドルの工場がぽっかりと浮かび上がる。工場には小売機能をそなえるショールームが併設されている。おとずれたお客さまがためつすがめつしているバッグはみずから手がけたものだった。<SOMÈS SADDLE/ソメスサドル>の職人、成田 竜太は思わず声をかける。「ぼくがつくったんですと明かしたら、サインをくださいといわれました(笑)」。札幌に暮らすお客さまは以降、ときにお土産を携えて足を運ぶようになった。北海道の名門は、素朴で密なコミュニティにささえられている。

<ソメスサドル>営業部の鳥屋 浩己さん(左)と生産部の成田 竜太さん(右)

歌志内と書いて、うたしない、と読む。アイヌ語のオタ・ウシ・ナイ(=砂のたくさんある沢)に由来する名だ。石炭産業で栄えた歌志内市の人口は最盛期に4万人を超えたが、閉山が相次ぎ、いまは5000人に満たない。日本一人口の少ない市だ。


炭鉱業にかわる産業をそだてるべく、その地の人々が北海道開拓を支えた馬具職人をつのり、1964年に創業したのが<ソメスサドル>の前身となる<オリエントレザー>である。海外の市場を狙った商いは出だしこそよかったが、オイルショックによる急激な円高で大打撃を被った。進退きわまったとき、再建にのぞんだのが染谷 政志だった。<ソメスサドル>の現会長、純一と社長、昇の父である。政志は<オリエントレザー>の設立に一役買った、とうじ市議会議長を務めていた人物だった。まったくの門外漢ながら、販路を国内に転じ、同時に革製品全般に領域を広げた。


<ソメスサドル>は1989年の天皇即位の大礼にともない、馬車具一式を納入、2008年の洞爺湖サミットでは各国首脳に贈る記念品としてダレスバッグを製造した。さびれた街の工場はいまや押しも押されもせぬ革製品の名門にのぼりつめた。

「EX-116」216,000円

里帰りしたバッグがデザイナー

<ソメスサドル>にデザイナーはいない。レディスのシーズン・コレクションなどをお願いしている外部スタッフはいるが、きほん、社内で意見を出し合って煮詰めていく。その大半は定番であり、5年選手、10年選手も珍しくないという。イセタンメンズがブライドルレザーへの乗せ替えをオファーしたダレスバッグにいたってはゆうに20年は経っている。

設計の骨格をなすのは馬具でつちかった技法であり、意匠だ。一本の糸の両端それぞれに針を取りつけ、革の表裏から同時に縫い上げていく二本針、口枠を支えるステイと呼ばれる堅牢な金具、ボディの角を覆う当て革。あるいはカンナ、ヤスリ、2種類の染料、つや消しを駆使し、一本のバッグでゆうに1時間をかけるコバ磨き。とにかくタフの一言に尽きるが、職人の成田は命にかかわる馬具のつくり方ですからねとこともなげにいう。


使い込んであらわになった不具合は都度、解消する。くだんのダレスバッグを例にすれば、初期のモデルは蛇腹が口枠にこすれて痛むことが多かった。試行錯誤して蛇腹が触れず、モノが取り出しやすい現在のサイズにたどり着いた。内装や錠前もおなじアプローチを経て改良されている。いってみれば<ソメスサドル>は里帰りしたバッグがデザイナーなのだ。

ロングセラー・モデルがごろごろとあるのはデザインするという発想がなく、馬具のモノづくりをベースに、すべては使い心地のために日々奮闘してきた結果である。

左「PG-221432,000、右「EX-116216,000

<ソメスサドル>の工場は、工場とは名ばかりで、3人でチームをつくり、チームでひとつのバッグをつくり上げる工房のようなスタイルを採っている。職人はぜんぶで50人ほど。おおくは地元からの採用だ。平均年齢は40歳を切る。

「天の恵みである革はひとつとしておなじものがありません。気候によってコンディションもがらりと変わる。これを理解するためには丸ごとひとつつくれるスキルが必要になるのです。なによりも馬具由来の複雑で高度なモノづくりは分業でカタチになるものではない」(営業部 鳥屋 浩己)


函館本線を札幌から北上すること小一時間。一日の乗降客数1000人あまりの砂川駅に近づくに連れ、車内やホームには<ソメスサドル>をもった老若男女がひとり、ふたりと増えていく。<ソメスサドル>は買い手もつくり手もひとつのコミュニティのなかで成立している。その果実をお裾分けしてもらえるぼくらは幸せだ。

Text:Takegawa Kei
Photo:Suzuki Shimpei

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