身体の欠点を包み込むスーツ

手に職をつける生き方があらためて見直され、スーツや靴の職人は最盛期のころに負けない厚い層を形成している。もはやベンチ入りも難しいほどに才能がひしめく世界にあって、その一角に食い込むポテンシャルを感じさせるのが山口信人だ。


山口 信人
やまぐち のぶと●東京都出身。服飾専門学校に入学し、テーラーを志す。卒業後は大阪ファイブワンでテーラリングの基礎を習得後、ミラノに渡り、1年間語学学校と仕立て屋に通う。帰国後三越伊勢丹に入社、次年から顧客限定でオーダーを取り始める。伊勢丹メンズ館にイベントで来日していたジェンナーロ・ソリートの服をみて感銘を受け、働きながら時間をみつけてはナポリに通い、ナポリ仕立てを学ぶ。2016年春夏、自身のブランド<ラ・スカーラ>を立ち上げる。


クロージングのフロアに立ち、リペアで腕を振るってきた山口信人。とくに告知もせず、なじみ客にかぎって受けてきたス・ミズーラがめっぽう評判がよかった。伊勢丹新宿店メンズ館ではこの春、本格的にデビューさせることを決めた。

「わたしのスーツの特徴は欠点を隠すところにあります。それはナポリで学んだ胸寸式という思想がもたらすものです」

スーツの採寸方法には大別して短寸式と胸寸式の二つがある。前者はイギリスや日本にポピュラーなもので、ありとあらゆる箇所を採寸して型紙をつくる。一方の胸寸式は胸回りをベースとした計算式があって自動的にその他数値が割り出される寸法だ。



「テーラーの世界に足を踏み入れたばかりのわたしは胸寸式を既製服のようなものだと思っていました。ところがわたしが選んだ短寸式では学んでも学んでも理想とするプロポーションが生まれなかった。出口がまったくみえない焦燥、締念。そこに差した一筋の光明がナポリでした」

はじめて訪れたナポリのテーラーの一軒でスーツをためつすがめつして、山口は深いため息をついた。気づいたときには閉店してから何時間も経っていた。

「胸寸式の採寸ポイントは驚くほど少なく、仮縫いで大胆に修正を入れていきます。短寸式が着手のシルエットを忠実に再現するものとすれば、胸寸式はまずはつくり手の美意識があって、そこに着手を沿わせていく、という考え方なんです。われわれ日本人はバルカポケットやマニカカミーチャといったディテールに目がいきがちですが、表皮をめくれば深遠な思想があった。こうしてわたしは数字の呪縛から解放された。スーツづくりがこころから楽しいと思えた瞬間でした」


山口は伊勢丹で働くかたわら、長い休みがとれると給料をつぎ込んでナポリへわたった。問題点を指摘されると、もち帰って修正を加え、再度みてもらう。そういう数年がつづいた。

「短寸式の常識では考えられないことの連続でした。たとえば内合い。かれらは平気で1・5センチ、ときには2センチ出すんです。日本では1センチが限度といわれていました。なにより印象に残っているのは画家が絵を描くように線を引け、というアドバイスでした」

胸寸式は前肩など肩に特徴のある日本人にフィットしないことが多い。そこで山口は襟のつけ方と毛芯のつくり方に工夫を凝らした。海の向こうのテーラーは、教えることはもうないよといった。
空気を羽織っているよう、という言葉があるが、ラ・スカーラはまさにそれだった。感嘆し、思いつくかぎりの賛辞をおくると、さんざん苦労したから導き出せたものですとつかのま、自負が顔をのぞかせた。

長い踊り場を経たステップ


山口がここに至るまでは字句通り、紆余曲折だった。

自立したかった山口は高校を出るとどこかに就職しようと考えていたが、すこしでも好きなことがあるならばやってみる価値はあるぞと親に諭された。古着屋にかよっていた山口は文化服装学院へ進んだ。

が、それまで考えもしなかった進路。なんとなく選んだコースは婦人服が主体でさっぱりイメージが湧かない。そんなときに目に留まったのがイギリスのジェントルマンズ・ブックだった。こんなかっこういい世界があるのかーー。いっぺんで虜になった山口はサヴィル・ロウへ乗り込むべくその道を模索し、スーツ・ファクトリーの名門、ファイブワンの職を得た。その地での修業経験がある先輩の一言がふたたび山口に舵を切らせる。それは、古き良きサヴィル・ロウの空気に触れたいならば、いまはイタリアへいくべきだ、というものだった。


ファイブワンで3年、縫いの技術をたっぷり身につけた山口はミラノを代表するカラチェニにたどり着いた。右腕の縫子として一生をおくりたい、そんな気概で臨んだ山口だったが、労働ビザの壁にはばまれる。貯金も底をつき、わずか1年で夢破れた山口は背中を丸めて帰国した。そうしてナポリの思想に出会った。

「むかしは貧乏でも好きなことができたら、と思っていましたが、いまは違う。脈々と受け継がれてきたロンドンハウスのように揺るぎないテーラー文化がつくれたらって思っています」

長い踊り場を脱した山口が踏み出した一歩は、自信にあふれている。ラ・スカーラはイタリア語で階段の意であり、それは自身の成長もあらわしている。

Text:Takegawa Kei
Photo:Fujii Taku

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