【連載】伝説のテニスウェアブランド「S2O」の魅力をラリーしながら深掘り|イセタンメンズ散歩
伊勢丹メンズ館のバイヤーが、今気になる人物と散歩形式で語り合う好評連載「イセタンメンズ散歩」。
第8弾は、今、ファッション好きから熱い視線が集まる「テニス」をフィーチャー。テニスをたしなむバイヤーの谷口雅樹が、最近リブランディングされ話題のテニスウェアブランド「Sud-Sud-Ouest(スドゥ・スドゥ・ウエスト)」創始者の宮本恵造さんとディレクターの増井康亮さんを訪ねます。
今回、3人はテニスを楽しみながら、「S2O」の誕生秘話やリブランディングの思いを語り合いました。
歴史あるコートに響く心地いい打球音
よく晴れた7月の早朝、バイヤー谷口が向かったのは東急東横線・田園調布駅からほど近い「田園テニス倶楽部」。1934年開業の伝統あるテニスクラブで、日本初の国際試合をはじめ全日本選手権などの数々のビッグゲームが行われてきたテニスプレーヤーにとって憧れのコートです。
「S2O」のウェアに身を包んだ宮本さん、増井さんと合流すると、美しく整備されたクレーコートでさっそくラリーをスタート。朝の静けさのなかに、テンポのいい打球音が響きわたります。
谷口雅樹(以下、谷口) すごく楽しかったです! みなさんにとってはお遊びレベルで大変恥ずかしいのですが・・・。
増井康亮(以下、増井) いやいや、谷口さん、上手ですよ。
宮本恵造(以下、宮本) ふたりともまだ若いので、最初からバンバンと思い切り打っていたけど、朝方はもっとゆっくりやったほうがいいですよ(笑)。
テニス留学に強豪テニス部で活躍…まさに達人
谷口 おふたりはいつからテニスを始めたんですか?
増井 僕は中学生からです。小学生のときは野球をやっていたんですが、中学・高校(成蹊)がテニスの名門で、せっかくなら全国1位を目指したいと思って始めました。一般的にテニスってけっこうハイソなイメージがあるかもしれませんが、僕の学校のテニス部は泥臭くてかなりハードでした。中学1年のときは、ひたすらマラソンと声出しとボール拾い、みたいな。
谷口 ザ・体育会ですね!
宮本 僕は中学生だったときにテレビで「全米オープン」をたまたまテレビで見たんです。1968年のアーサー・アッシュが優勝した大会で、カッコいいなと思って、高校に入ってからテニスを始めました。国内の試合でけっこう勝てるようになって、もっとうまくなりたいと思って高校卒業後にアメリカへ行ったんです。
増井 展開が早いですね。
谷口 本当。切り替えがすごいです。
宮本 それこそここ(田園テニス倶楽部)の隣にあった「田園コロシアム」で開かれた大会で、アメリカ帰りの九鬼潤さんって選手がすごくカッコよくて、アメリカに行ったら強くなれるのかなって。それで、ジュニアカレッジ(短期大学)を経て、California State University Bakersfield(カリフォルニア州立大学)へ行ったら、練習環境も含めてもうレベルが全然違うんですよ。あまりにもレベル差があって、これはちょっとプロにはなれないなと思って、日本に戻ってきたんです。
即日完売『POPEYE』テニス特集の立役者
谷口 それでもその後もずっとテニスと関わられていらっしゃいますよね?
宮本 一回はテニスをやめてたんですけど、日本開催のテニスの大きい大会に通訳として呼ばれたり、同時に雑誌『POPEYE』のテニス特集の手伝いを頼まれたりして、またテニスのほうへ戻っていきました。当時は『POPEYE』初代編集長の木滑良久さんと副編集長の石川次郎さんがいて、「『テニスボーイ』って増刊号をつくるから手伝って」と言われて。軽い気持ちで引き受けたんです。
谷口 なるほど。
宮本 僕は別の出版会社で会社員をしていたから、朝から会社へ行って働いて、夕方から編集部へ行くわけですよ。大変だったけど、1978年に初開催の男子テニストーナメント「セイコー・スーパー・テニス」初日に発売して、即日完売。あの頃は、ものすごいテニスブームだったからね。
谷口 すごいな。雑誌づくりは未経験からいきなりですよね。
宮本 テニス以外にもアメリカンフットボールとかいろんな雑誌の企画をやりましたよ。
しばらくラリーを楽しんだら、木陰でひと休み。心地いい風を感じながら。「S2O」について深掘りしていきましょう。
ほしいテニスウェアがないなら自分でつくる
谷口 その後、宮本さんはどういうふうにアパレルのほうへ行くんですか?
宮本 千葉の成田に新しくできたテニスクラブに誘われて所属プロになって、そのクラブのウェアをつくったんです。そのブランドを離れたあと、千駄ヶ谷で(アッシュのテニス公式ウェアブランドの)「アーサー・アッシュ&フレンズ」を始めました。
増井 それってアッシュともつながりがあったからですか?
宮本 そうそう。アッシュから「アメリカでブランドをやってるんだけど日本でやんない?」って。その「アーサー・アッシュ&フレンズ」は10年くらいで区切りをつけて、そのあと「S2O」を立ち上げました。
ブランド名の「Sud Sud Ouest」は、フランス語で「南南西の風」。ちょっと長いから「S2O」。始まりは1989年、バブルの頃ですね。
増井 僕がちょうど1989年生まれなんです。フランスで服装に気遣うスポーツマンを「風のなかのスポーツマン」と呼ぶことがブランド名の由来になっています。デザインの矢印も南南西も示していて、旗は風に揺れているんです。
宮本 当時、テニススクールも運営しながら、ブランドの立ち上げはスタッフ入れて5人くらいでやりました。そのうちのひとりがMacを使っていろいろとデザインしました。1980年代後半とか90年代は、アンドレ・アガシが蛍光色の黄色いアンダーパンツを履いたり、テニスウェアはフラッシュカラーが主流。でも僕はもう一度、テニスのベースであるシンプルなデザインに戻したいと思ったんです。有名な海外ブランドがライセンス化してあまりカッコよくなくなって、ほしいウェアがなかったから自分でつくろうというのもありましたね。
谷口 アガシがまだ髪を伸ばしてたときですよね。たしかに派手なイメージありますね。
増井 「S2O」で当時、シルクスクリーンもやってたと聞いてすごいなと思いました。今、けっこう若い世代がやっているから、走りじゃないですか。
谷口 それはすごい!
宮本 そうそう店の裏でやってた。自分のドライヤーで乾かしたり、大きいアイロンでプレスしたりして(笑)。そういう笑える話がいっぱいあるんですよ。
クラシックなデザインが街でも話題に
増井 その頃はいろんな方々がテニスウェアを着ていたんですか?
宮本 テニスウェアというより、いわゆるトラックジャケットで、「アディダス」と同じような感覚で着てたね。店も車で通りがかりやすい場所というのもあって、「S2O」も当時からタウンユースへの広がりは意外にけっこうありました。
谷口 「S2O」は飽きのこないクラシックな雰囲気で、普段着に落とし込みたくなるデザインですよね。
宮本 もちろんテニスプレーヤーも含めていろんな人が着てくれましたよ。たとえば、ダスティン・ホフマンが『フック』って映画のプロモーションで来日したとき、テニスをしたいということでアテンドしたことがあるんですが、彼も着てくれました。
増井 俺、その映画見ましたよ(笑)。
谷口 その後、ブランドはどうなっていくんですか?
宮本 90年代半ばには、だんだんチームウェアの通販が中心になっていたのと、その頃僕がサッカー選手のエージェントの仕事もやり始めたというのもあって、1998年には千駄ヶ谷の店を閉めました。
谷口 いろんなことされて、経験が多岐に渡りすぎです。
テニスが生んだ縁からついに再始動
谷口 そして、時を経てリブランディングされるわけですね。
増井 もともと、恵造さんの息子の賢くん(現・『POPEYE Web』編集長)と友達だったんです。彼もテニスをやっていて、僕がいた高校と学校同士が仲良かったので、よく一緒に練習したり遠征に行ったりしていました。その後、社会人になってまたテニスを通じて賢くんと再会したんです。
それで、賢くんのお子さん、つまり恵造さんのお孫さんが2020年に生まれたタイミングで、その子に着せようってことで「S2O」を復活しました。僕は新卒から洋服づくりの仕事をしてきて、いつかテニスとファッションを仕事にしたいなと思っていて、賢くんといろいろ話していたら、「親父がやってたブランドがあって、それをやってみない?」って声をかけてくれたんです。
谷口 増井さんは「S2O」を見て、どんなところに魅力を感じたんですか?
増井 デザイン面の表層的な事は勿論ですが、一番は恵造さんが残してきた功績に魅力を感じました。ファッションビジネスだけではなく、技術や文化の発信などを第一人者としてやられてきた事を受け継いでいきたいと思っています。
谷口 デザインは往年のコレクションと復活後で、大きくは変えていないですか?
増井 変えていません。僕のなかで印象的なのは、当時のスタッフが定番商品の上下スウェットを着ているセピアの集合写真です。裾はソックスにインするスタイルがめちゃくちゃカッコいいんです。そのスウェットは今も定番としてつくり続けていますし、グラフィックも昔からあるものを使っています。
谷口 宮本さんが取り組まれていたタイミングからやや時が経ちましたが、ブランド再開に合わせて、モノづくりの背景など増井さんなりに変更したポイントなどありますか?
増井 そうですね。そこは自分の経験を活かしながら、今は新しい生地、縫製がどんどん出ているので、歴史あるロゴとストーリーと今の技術を掛け合わせたらおもしろいと考えてます。
ファッションからテニスへの導線
増井 今、コートで「S2O」を着ているとブランドを知ってる年上の方々に声をかけてもらいますよ。今の日本のテニス人口は、やっぱり50〜60代が一番多くて、ジュニアもけっこういるんですが、自分たちのような世代でやっている方が少ないんですよ。ここ「田園テニス倶楽部」のような歴史ある会員制クラブでも平均年齢が高くなり、存続が危ぶまれているところもあります。
そうしたなかで、自分としては「S2O」を通してテニスをもっと盛り上げて、テニス人口を増やしていきたいという思いがあります。だから畑を耕すところからというか、ビギナー向けのイベントを開催したり、伝統的なクラブでルック撮影を行なったりして、次世代とテニスとをつなげるような取り組みもしていて。最近は、ファッション界隈でテニスを始めたいという方が多いように感じているので、「S2O」からテニスに興味を持ってもらう導線がつくれたらいいな、と。
谷口 実は、僕は初めて「S2O」を見たときにテニスウェアではなく、ファッションブランドだと思ったんです。もちろんテニスウェアとしてもシンプルで着やすいと思うので、お客さまとの色々なタッチポイントを作れますよね。増井さんが目指されている、ファッションを入り口にテニスファンを増やしたいという思いを実現するにはピッタリかな、と。
増井 ありがとうございます。一方で、テニスウェアブランドとして「オンコートで着られるかどうか」という点で、よく恵造さんに相談させてもらっています。
宮本 テニスはアマチュアの試合でも競技のときにけっこううるさいんですよ。マークのサイズとか数とか、あんまり影響ないのに(笑)。
谷口 そういう意味でテニスは格式の高い一面もありますからね・・・。
増井 そこはそこでしっかりとパフォーマンスを高めて、ゆくゆくはアスリートの方にも着てもらいたいです。
宮本 昔、僕らの世代はやっぱり海外のブランドのほうがカッコいいって思ってたんですけど、今は日本のブランドが製品として世界ですごく評価されています。ラケットは「ヨネックス」、シューズでは「アシックス」が非常によく使われてます。4大大会なんかに行くとびっくりしますよ。
増井 そういった意味では「S2O」もメイド・イン・ジャパンの強みも活かして海外にも進出したいっていう大きな夢も持ってます。
谷口 いいですね!
宮本 若い世代に頑張ってもらいます(笑)。ところで、伊勢丹って昔、(日本初のテニススクールである)「伊勢丹テニススクール」をつくったんですよ。選手たちはみんなハンサムでテニスもカッコよかった。当時のテニス部の雰囲気じゃなかったんですよ。
増井 日本初のテニス用品店「レイテニスショップ」もあったんですよね。
宮本 そうそう。50年くらい前の話で、テニスをやっている人の憧れのショップが伊勢丹にあったんですよ。
谷口 自分の働いている会社の歴史なのに、初めての情報でビックリです。伊勢丹もテニスとの縁が深いんですね。今日は「S2O」のブランドの背景をお聞きできてとても勉強になりました。テニス経験者って普段の生活の中だと中々見つけられないんですが、「S2O」みたいなブランドが広まってくれると、意外と身近なテニス好きの存在に気付けそうです。
あとファッションをキッカケに、初めてテニスに挑戦する人や、久しぶりに復活される人が増えると良いなとも思いました。今回お会いできたお二人との繋がりもそうですが、改めてテニスというスポーツを通したコミュニティを大切にしたいですね。
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