2016.04.29 update

【インタビュー】鈴木一郎(デザイナー) |もうひとりのICHIRO

<ヘンリープール>初の日本人カッター、鈴木一郎がメンズ館5階=メイド トゥ メジャーの5人目に加わったのは2012年の9月のことでその数カ月後、フランスのメゾンデザイナーズブランドに引き抜かれた。



鈴木一郎

大阪府出身。ロンドン・カレッジ・オブ・ファッションを経て、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートのファッション学部にてメンズの修士を修了。在学中より、ロンドン・サヴィルロウの老舗テーラー<ヘンリープール>にてカッターを務め、2012年には、欧州最大のファッションコンテストの一つである「ITS(インターナショナル・タレント・サポート)2012」ファッション部門においてグランプリを獲得。現在は、フランスのデザイナーブランドのメンズデザインチームの一人として活躍中。


鈴木はコンペ荒らしだった。

アート、デザインの分野で世界の格付け1位にランクするRCA(=ロイヤル・カレッジ・オブ・アート)の授業料の半分はそれまでに稼いだ賞金で賄った。卒業の年に国をまたいだ新人デザイナーのコンペ、ITSでグランプリを受賞すると、いくつものファッションハウスから声がかかり、だれもが知るブランドに籍をおいてすでに3年が経つ。これ以上ない華やかな経歴だが、それは鈴木の一部にすぎない。ロンドンから電車で1時間あまりのイーストボーンの語学学校での3ヵ月を経てLCF(=ロンドン・カレッジ・オブ・ファッション)に入学した鈴木は当初、デザインの授業はすっぽかしてひたすら縫っていた。
 
「(日本の)普通の大学に通う普通の学生だったわたしは年相応にファッションに興味をもちます。アルバイトで稼いだ金はブランドものに消えました。顧客名簿に名を連ねるほどに散財して、プライスとクオリティがかならずしも一致しないことに気づきます。素材やつくりを意識するようになり、おぼろげながらテーラーへの憧れが芽生えた」


テーラリングの世界を順調に血肉としていく鈴木は翌年の進路でイタリア研修のコースを選ぶ。ところが、「学生が集まらず中止になった」。
途方に暮れていた鈴木を導いてくれたのが、講師のアラン・キャノン・ジョーンズ。就職に必要なバチェラー・オブ・アーツの資格がもらえるからと背中を押され、デザインを教えるメンズウェアのコースへ。ここでクリエイトの面白さに開眼し、コンペに出品する日々がはじまるのだが、<ヘンリープール>に潜り込む足がかりを与えくれたのもアランだった。
 
日中はカッターとしてはたらき、仕事終わりには老練の職人のマンツーマンでテーラリングを学んで6年。構築的なショルダーライン、ウエストを絞り込むことであらわれるイングリッシュ・ドレープ。古き良き英国紳士を彷彿とさせるメイド トゥ メジャーのシルエット美は本場の空気をたっぷり吸い込んで身体の隅々にまでいきわたらせた賜物だ。RCAにはヘンリー プールに勤めながら通った。鈴木にとってはその受験も腕試しの一環だったが、せっかく受かったのだからとアトリエとカレッジをせっせと往復した。


テーラーの革命児


クリエイターやデザイナーのフロアに足繁く通ったカスタマーがいざスーツを誂えようかとなったとき、十中八九が鈴木のスーツを手にとるんですと三越伊勢丹のバイヤー、鏡陽介はいう。鈴木のフィルターをとおしたそのスーツには、マスキュリンさのなかにどこかモードな匂いも漂う。 
メイド トゥ メジャーは誰もがみとめる日本の気鋭テーラーを招集して立ち上がった。ひるがえって、当時の鈴木は無名に近い。
 
「一言でいえばテーラーの未来を感じたのです。はじめはサイモン(カンディ。ヘンリー プール七代目)の通訳だと思ったんですが(笑)」

緯糸を抜いて、よれたタータンチェック、キューブをプリントとパッチワーク、立体で表現したコート、異なるアウターをノコギリの刃のような刺繍で縫い合わせた一着…。素人目にみても従来の服の概念をかるく超えていた。これまでにつくり溜めた作品のゆたかな発想力はもちろん、具現化する技量も圧巻だった。
 
いま、鈴木の肩書きはデザイナーであり、かたわらでメイド トゥ メジャーを手がけている格好だ。クリエイトの才は過去の作品からもあきらかだが、あくまで軸足はテーラリングにあり、<ヘンリープール>で学んだことがわたしという人間の主成分ですといい切る。
 

「ラウンジスーツのような、未来永劫つづくクラシックをつくりたい」
 
いっぱんに職人は腕を磨くことに血道をあげる。もちろんそれは大切な素養だけれど、鈴木はもうすこし先をみている。そしてひょいと有言実行してしまいそうなポテンシャルを感じる。ファッションハウスでの経験が武器になるのはいわずもがな、見逃せないのが出会った人を虜にする前のめりな性分だ。

鈴木には要所要所で手を差し伸べる人がいた。LCFのアランがかれに目を留めたのは入り浸った生地屋でつくった、じつに詳細な生地スワッチのポートフォリオがきっかけだった。日本人初の栄誉に飽き足らなかったヘンリー プール時代のかれはだれもが一目おいた。

賞金では工面しきれなかったRCAの学費の残りを援助してくれたのは<ヘンリープール>の七代目である。

Text:Takegawa Kei
Photo:Fujii Taku

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