【インタビュー】島本亘|世界4位のシューメーカー(1/2)
"世界一の靴職人"パトリック・フライ氏の作品を特別展示、「ワールドチャンピオンシップインシューメイキング」上位入賞靴がメンズ館に集結!
イベント情報「ワールドチャンピオンシップインシューメイキング」エキシビジョン
□10月3日(水)~9日(火)□メンズ館地下1階=紳士靴
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「お題は黒のオックスフォード。ロングヴァンプでシームレスヒールというところが見どころです。少々専門的な話になりますが、つま先からかかとまでぐるりと覆うヴァンプを釣り込もうと思うと、どうしてもかかとまわりが収まりません。そこでぼくはまず、ホールカット(一枚革)のアッパーをつくって、これを釣り込み、アッパーの上に直接型紙を引いてヴァンプを切り出しました。そしてさらに同設計のホールカットのアッパーを釣り込んでレースステイまわりをカット。要は2足分のアッパーをつかった、大小二つのドーナッツ状のパーツからなるのがこの靴です」
おそらくそれなりの目利きでさえ、実物を手に説明してもらわなければ理解できないこの構造で、島本は世界で5本の指に入った。
我流でたどり着いたフィレンツェ
「9年が長い? いわれてみればそうですね。けれど、ぼくにしてみれば一瞬でした。とにかく日々、課題が生まれるんです。どうしたらこの課題を克服することができるのか。仮説と検証を繰り返しているうちにあっという間に時間は経ってしまいました」
大学ぐらいは出ておきなさいといわれた2000年代のはじめ、世は高級靴ブームだった。きれいな靴があるものだなと感じ入った大学生の島本はものは試しにつくってみようと思い立つ。非凡なところは、何者にも頼らず、というところだ。
「むかしから絵を描いたり、ものをつくったりするのが好きでした。シャープペンシルをばらして分解図を描いたのは幼稚園のころでした」
浅草へ革など材料を買い出しにいった島本は製靴の技術書と首っ引きで、家のミシンをつかい、2ヵ月かけてつくりあげてしまう。途中投げ出しそうになったこともあるというが、仕上がったときには「もっとうまくできるだろう」と早くも次の靴の構想に取り掛かっていた。
「ぼんやりとですが、ああぼくはこの世界でやっていくんだと思いました。一枚の革が立体になる。天然素材の奥深さにもやっぱり惹かれましたね」
本格的に技術を身につけるために島本が選んだのは修理屋のアルバイトだった。順序立てて学ぼうと思えばシュースクールが一番だが、無数の靴をばらす修理屋の仕事は学校よりもよっぽど勉強になると考えたという。
「数をこなす、というのは職人に大切な部分。修理屋で働いて、確実に手がこなれていくのがわかりました。手製靴の世界では情報が乏しい接着剤の先端技術が学べたのも大きかった。ちかごろはラバーソールも軽んじることのできないスペックですからね」
この選択には思わぬおまけもついた。修理屋にはイタリア帰りの職人がゴロゴロいたのだ。わからないことがあれば一線の薫陶を受けた同僚に都度相談することができた。
大学を卒業した島本はそのままその修理屋に就職する。月曜から土曜の日中は仕事をし、仕事終わりと日曜はまるまるみずからの靴づくりに当てた。そうして、渡伊。驚くことに、事前のコンタクトなど一切とらず文字どおり行き当たりばったりで飛行機に乗った。
「すでにそれなりの数の靴をつくってきて、そこそこ通用するところまできていると判断しました。つまり、どこかしら雇ってくれるだろう、と。フィレンツェはものづくりの街ですから、最悪でも手仕事の仕事には就けると考えていました」
門を叩いたのは<ステファノ・ベーメル>。惜しまれつつ亡くなったベーメル本人に会うことはできたものの、「うちでは難しい。深谷のところへいったらどうか」と諭された。イタリア語がまったく話せないことをベーメルは危ぶんだのだ。そのころ深谷は弟子をとっていなかったが、駄目でもともとと訪れると思いがけず雇ってくれた。運良く踏み出したその道のりは果たせるかな、けして平坦ではなかった。
「辞めるか辞めないか、明日までに決めろと突き放されたこともあります。必死で食らいつきました。ここまできたらおめおめ日本に帰れない。意地だけでした」
そこには畏怖といっていい憧れもあった。
「雲の上のような存在で、まさか弟子になれるなんて思ってもみませんでした。そしてそれはじっさいに働くようになってあらためて痛感しました。技術もさることながらすべてが圧倒的な美意識に貫かれている。引く線が美しいのは言わずもがな、深谷さんはペンを走らせるその所作さえ美しいんです。深谷さんのところで働けたのは幸せなことでした」
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