2015.11.03 update

【インタビュー】福田 洋平(Yohei Fukuda デザイナー)|英才教育と実直な性分(1/2)

香港の新進気鋭のセレクトショップ「THE ARMOURY/アーモリー」でのトランクショーも始動し、来日中の欧米人からの注文を含めれば売上げの半分を外国のそれが占めるまでになった。現在も10を超える海外のショップから引き合いがある。いまや押しも押されもせぬビスポークシューメーカー、福田洋平とは?


生まれ育った富山はガラパゴスのような街だった。難攻不落の城塞さながら前方を海、後方を山に囲まれているおかげで専門店の名にふさわしい店が軒を連ねる商店街が守られた。福田は長じて奇跡の靴店、クリスピンに入り浸るようになる。

「<オールデン>や<レッド・ウイング>がずらりと揃う、東京にも負けない名店。松井さん(松井健資代表)にはずいぶんかわいがられて、靴の本もたくさん貸していただいた。渡英すべく洋服屋さんでアルバイトをしていたころで、仕事終わりに顔を出すのが日課でした」

小学3年のころには自分で服を選ぶようになり、5年生になると古着屋巡りをはじめた早熟な少年は甲高幅広で足が小さかったから、とくに靴には思い入れがあった。

「気に入ったスニーカーはプレミアがついてとても手が出ない。ならばと古着屋を丹念に探して手ごろな一足をみつけたんですが、ボクシングシューズのそれはアスファルトには耐えられない。安いスニーカーを買ってきて分解、そのソールを貼りつけて履きました(笑)」


福田が靴職人になったのは、いってみれば英才教育の賜物だった。

「祖父が手を動かすのが好きなヒトだったんです。庭の造作はすべて祖父。松の手入れや雪囲いは朝飯前で、庭の池を床下まで拡張、廊下をガラス張りにしたことも。家にいながら鯉が泳ぐ姿が眺められました(笑)。そして、外出するときは仕立てたスーツをぱりっと着こなしていた。父はいわゆるサラリーマンで、服を買うのも母親に任せてしまうようなヒトでしたが」

念願かなってイギリスへ渡ってからの活躍は靴好きならご存じのとおり。そうそうにイセタンメンズはじめ立て続けにお披露目の場が決まり、海外でもその名を広く知られるまでになった。

育った環境に一日の長があったのはたしかだが、後発の部類に入る福田が一体全体なぜ、いまもっとも層の厚い日本にあって、名だたるビスポークシューメーカーをごぼう抜きにすることができたのか。